財布を拾うと中身がもらえるらしい。
こんちには。
今年はかなり忙しい一年となりました。
思い返せば、夏季休暇以外はほとんど勉強していたように思います。
しかしながらそれだけ勉強していても、学びたいこと、知らなければいけないことがなくなることはなく、逆に学んだことが増えるにつれてそれらは増える一方です。
研究の最前線に立つ研究者の方々はすごいなぁと思いながら、重要な下積み期間だと思って楽しんで学んでいきたいです。
こうして半ば世間とは隔絶した1年を送ってきましたが、ようやく冬期休暇に入りました。
外を歩いていると何処となく年末の雰囲気が感じられて、やはり年末のこのゆったり感はいいなと再認識しました。
・財布を拾ったはなし。
話は変わりますがタイトルにもあるように僕は昨日財布を拾いました。
(書いているうちに一昨日になりました。)
拾った場所は住んでいるアパートの階段です。
クリスマスイブに財布を落とすとは不運な方だなと思いました。
おそらく財布の持ち主はこのアパートの住人だろうと思い、最初は落としたところの近くに置いておけばそのうち落としたことに気づいて持ち主が現れるだろうと思いました。
しかしこの後誰かに盗まれでもしたら大変だから、財布の中に電話番号が分かるものがないか探しました。
生まれて初めて他人の財布を無断で物色したので、中身を探る最中に通りかかる人々の目線が犯人が感じるそれと同じように感じられました。
電話番号が分かるものは入っていませんでしたが、学生証があって僕と同じ大学に通っていることが分かりました。
なので大学か交番のどちらかにもっていこうと思い、交番が無難かなと考えて交番にもっていきました。
交番に持っていって、財布を拾ったんですがと言うと、名前や拾った場所などを聞かれました。
色々聞かれて、最後に、
財布の中のお金をもらえますけどどうしますか?
と聞かれました。
僕はこの思いがけない質問にかなり困惑しました。
続けて、
お札とかは入っていませんがもらいますか?
とも聞かれました。
僕は、
いやまぁ大丈夫です。
と言って帰りました。
(すぐに財布の持ち主が見つかったそうです。まぁ同じアパートの住人だと思うのでそりゃそうだろうという感じなんですが、持ち主さん見つかってよかったですね。)
・ぼやき。
①そもそも拾った財布の中身を取ったら犯罪なんですかね?
少し調べてみたんですが、持ち去って交番に届けないと違法になる可能性があるらしいです。
僕は多分落ちている財布の中身をくすねたりすることはないと思うので違法かどうかあまり関心はありませんが、もし僕を含めた誰かが財布を落として交番に届けられなかったら困るだろうなぁと思うので、この観点だけで考えると違法であってほしいなと思います。
財布を盗んだ人を想像すると、困るという気持ちより悲しさが勝つかもしれません。
②交番に財布を届けておいて謝礼をもらうような人間はいるんですかね?
倫理観や法律を別にして考えれば、
お金が大好きな人は交番に届ける前にお金だけ抜いて、そのあとに交番に届けるかそのまま放置するんじゃないのかなと思います。
お金を欲さない人は中身を取らずに放置または交番に届けると思います。
そう考えると中身が入った財布を交番に届けて謝礼を要求する人間はいるのかなと思うんです。
仮にそういう人がいたとしたら、
その人が財布を届ける理由は、財布の持ち主を思ってではなく後ろめたさなく合法的に謝礼という名で金銭を得るためだということになります。
警察の方は拾った僕に一応そういう権利があるので聞いただけかもしれませんが、もし実際にそういう人がいたら是非理由を聞いてみたいなと思いました。
何か深い理由があるかもしれないので。
③警察の方はどういう意図で”お札は入っていませんが”と言ったのでしょうか?
少額だったらもらわなくてもいいけれど大金だったらもらいます
とでも思っていると思われたんですかね。
日本では自由な経済活動が認められていて金銭を得る方法は合法だったらなんでも許されています。
(合法だから許されているのは当然かもしれませんが、ほかの地域では宗教などの問題もありそうです。)
金銭は必ずしも労働の対価として得るものではありません。
棚からぼたもち的に財布を拾って謝礼をもらっても悪いことではありません。
むしろ財布を落とすほうが悪いという意見のほうがメジャーかもしれません。
もらえるものはもらっておこうと考える人もいるでしょう。
しかしこれらは資本主義社会に深く根付いている拝金主義が根底にある考え方で、何もないゼロから謝礼をもらうという行為を考えてみるとどうでしょうか。
財布を落とした方の顔を想像しながら謝礼を気持ちよくもらえますかね。
(財布を届けてくれただけでもありがたいという方もいらっしゃると思いますが)
財布に大金が入っていたら少し考え込んでしまうものなんですかね。
やっぱり僕はお金が嫌いです。
なぜ少しでも経済的に裕福でありたいと思い、そのためにはどんな手段でも取り、また様々なものを犠牲にするのでしょうか。
ただ僕に物欲がないだけのことでしょうか。
みんなは少しでも給料の高い職に就ける大学に行けるように受験勉強をしていました。
高給取りになるために医者を目指す人もいました。
目指す理由は人それぞれですが、僕はそう言った医者に診てもらいたくありません。
本当に日本をよくしたいと思う政治家はどれほどいるでしょうか。
最初はそう意気込んでも政治家の社会に揉まれて”政治家らしく”なるんですかね。
本当に会社を支援するために投資をしている方はどれほどいるでしょうか。
お金に働かせるだけの人間になっていないですかね。
昨今は大学の多さが問題となっていますが、
本当に学生を育てたいと思う大学経営者はどれほどいるでしょうか。
(大学経営は悲しいことにいい商売らしいですね。)
僕は質素に大学生活を送っていますが、自分は不幸せだと思ったことは1度もありません。
お金は絶対的な存在ではありません。
こうやって20年弱生きてきて思うことは、
必要最低限のお金で細々と生活し、自他を大切にしながら自分の道を模索することが1番幸せな生き方だということです。
お金にしか目のない方は1度”お金は大切である”という命題を疑い、深く考えてほしいです。
そのうえでお金が大切だというのならそれは本当に大切なものなんだと思います。
僕は今年成人を迎えますがこのような”大人”にはなりたくないと心から思います。
たとえ100万円を拾ってもためらわずに交番に届けられる人間でありたいです。
しかし、ここまでの僕の考えは世間知らずが言うきれいごとなのかもしれません。
研究という自分の好きなことを生業に生きていこうとしている(研究職は本当に厳しい世界なのでなれる保証はどこにもありませんが)人間が、必ずしも仕事にやりがいを感じるとは限らない方々が大多数のこの社会を斜めに見ているだけなのかもしれません。
ただこのままコロナが猛威をふるい続ければ、財布の中身をくすねたり謝礼を要求したりするような人間ばかりでは非常に窮屈で攻撃的な世の中になっていくのではないでしょうか。
真に優しい世の中であってほしいと切に願います。
僕もこういう”大人”になっていくんでしょうか。
以上、”大人”になるのが怖い”子供”より。
今回は財布を拾ったことから繋げていろいろ書いてみました。
ここまで読んでくださってどうもありがとうございます。
では。