あしあとのかたち

物理学を学ぶ大学生が思ったことを書きます

確かなものとは

こんちには

 

4日ほどブログが空きました。

 

課題やゼミ関係で忙しかったのと、

最近急に寒くなって体調が何となくすぐれなかったからです。

 

このブログを開設した日から、

4日で4本書いて、それっきり書いていなかったので、

4日坊主なんじゃないかと思われるかもしれません。

 

書くたびにアクセス数が増えるのがうれしくて

ついハイペースになってしまいましたが、

通常時は2.3日に一本位を目標に頑張りたいです。

 

書いた記事を見返して、

ん~、あんまりおもしろく書けなかったなぁ

と思いながら毎回公開ボタンを押しています。

 

1日のアクセス数が1番多い日で40弱だったので、

無数にあるブログの中で、

こんなにも読んでもらえるものなんだなぁ

と思いました。

 

アクセス数なので

読んだはいいけど面白くないな

と思う方もいらっしゃるかと思いますが。

 

もし興味をもったら

星マークを押していただけると

僕のブログを書くモチベーションにつながります。

 

引き続き読んでくださるとありがたいです。

 

 

 

 

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好きな風景

 

 

さて、

今回のテーマについてですが、

みなさんの身の回りにはどれほど確かなものがありますか?

 

確かなものという言葉だけではそれ自身全然確かではないので、

まずはしっかり定義していきたいと思います。

 

僕の言う確かなものの定義としては

 

昨日はああで今日はこうでということもなく

彼にとってああで彼女にとってこうでということもなく

この人が言うからああであの人が言うからこうでということもなく

こっちではああであっちではこうでということもなく

昭和だからああで令和だからこうでということもなく

こう見ればああでああ見ればこうでということもなく

貧乏だからああで裕福だからこうでということもなく

 

このように

相対する要素に依存しない

という否定文を並べ続けて、

最後に心の中に残った何かが確かなものだ

と僕は定義しています。

 

(これは早口言葉ではありません)

 

では具体的に何が確かなものといえるでしょうか?

 

この定義文を読んであなたの心には何が残りましたか?

 

教科書に書いてあることですか?

 

信頼する人が言った言葉ですか?

 

あなたが昔から揺るぎないと思っている何かですか?

 

あなたが今見ている景色ですか?

 

科学や宗教ですか?

 

親友の存在ですか?

 

僕の心には 論理 が残りました。

 

みなさんのこころにも 

論理のようなが残ったんじゃないでしょうか。

 

論理以外が残ったとしても

それは論理と結びつけられるものなのではないでしょうか。

 

(例えば数学とか)

 

もしそれ以外のものが浮かんだ方は教えていただけると幸いです。

 

上にあげた

からしいものと

確かなもの、つまり論理

との違いは何なんでしょうか?

 

それは

自分のうちのあるか、外にあるか

の違いだと考えます。

 

(ここでいう自分の内、外は言葉で定義することが難しいので、

 何となく自分に境界線を引いてみてください)

 

すなわち、

確かなものとは自分のうちにあり

からしいものを含めた、確かなものではないものはすべて自分の外にある

ということです。

 

自分の外のものを自分のうちに入れようとするとき、

そこには何らかの不定性が付きまといます。

 

では、

上にあげたものに当てはめて考えてみます。

 

 

 

 

 

教科書に書いてあること、

つまり学問(論理学、数学以外の)は

自分の外の何かを研究対象とします。

 

心理学は心のなかについての学問じゃないか

と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、

心の中はここでいう自分の外にあたります。

 

自分の体や心を越えた、

何かよくわからない仮想的な領域を内

と考えています。

 

(別にスピリチュアルなことがいいたいわけではありません)

 

例えば僕が勉強している物理学を考えてみます。

 

物理学者は

この世の森羅万象を数式で表そうとしています。

 

そのためには、

まずは基礎方程式が必要となります。

 

原理といっても差し支えはないでしょう。

 

例えば、

質点(テニスボールを想像するとわかりやすいです。)の

運動を記述するには、

ニュートン運動方程式と呼ばれるもの

基礎方程式、原理としておきます。

 

そして、

質点の必要な情報(質量、初期条件)を与えることで

未来永劫までの質点の運動を知ることができます。

 

では、

ここででできた原理は、

ニュートン運動方程式

一体どこからやってきたんでしょうか?

 

実は、

原理というものは

物理学者のそれまでの様々な観察、測定の末に

これで現象は十分再現されているだろう

という物理学的推測のもと打ち立てられたものです。

 

つまり、

ニュートン力学を考える際に

ニュートン運動方程式を疑うことは無意味なことなのです。

 

高校生の僕はずっと疑っていました。

 

asiatonokatati.hatenablog.com

 (こちらに書いています。)

 

原理の是非は、

その原理から作られた理論が

自然をどれだけ正確に再現しているかにかかっているのです。

 

原理をおいた以上、

物理学は数学の問題に還元されるともいえます。

 

(原理の他にも仮定や近似をいれないと解けないものがほとんどですが)

 

この原理をおくことが、

学問における

自分の外のものを内に入れる手続き

にあたります。

 

 

 

 

次に親友の存在について考えて見ます。

 

まぁ別に親友に限らず他者の存在としてもいいんですが。

 

僕は小さいころから

本当に他者は存在するのか

という疑問を持っていました。

 

そう考えるようになったのも、

小学生のころ、友達と遊んで家に帰ったあとの

不思議な気持ちからです。

 

小学生だった僕は6時くらいになると

校則を守り

(というか先生に見つかるのが怖くて)

友達の家を出て、帰路についていました。

 

友達の家を出て少し歩くと

いつも変な感覚に襲われていました。

 

あれ、いま友達は何をしているんだろう。

 

そもそもいま友達は存在しているのかな?

 

こんな疑問を持ちながら家につき、

晩御飯を食べ、

テレビを見ていると、

またあの不思議な感覚を覚え始めるのです。

 

友達はいま、

僕がさっきまでいたあの家で、

いま僕がテレビを見ているように、

何らかの生活をしているんだろうか。

 

もしかして

いまは存在していないんじゃないか。

 

そう思いながら眠りにつき、

翌朝学校に行ってみると、

確かに彼は存在しているのです。 

 

これは

プラトンの洞窟の比喩

デカルト方法序説にも通ずる考え方です。

 

いまは友達を例に挙げましたが、

人でなくとも

何か物質が存在しているとすると、

それは自分の外に存在しているのです。

 

だから、

その存在を認識するとき、

つまり自分の外にある物質の存在が内と外との境界を越えるとき、

そこに怪しさ、不定性が付いてくるのです。

 

いま、

学問と存在の不確かさを考えましたが、

同じような議論で

この世のほとんどのものは僕のいう確かなものではない

ということが言えます。

 

長々と小難しいことを言ってきましたが、

要するに、

現実の何かを認識するとき、

その認識の過程で、

目の錯覚のような不確かさが生じて

現実をありのまま認識することはできないでしょう

ということです。

 

つまり、

認識の限界を論じていたわけです。

 

これは当然といえば当然のことです。

 

何も定義されていない現実世界を認識するためには、

なにか足掛かりとなるものが必要になります。

 

科学の世界ではこれを原理と呼ぶし、

何かを考えるときにはこれを基準と呼びます。

 

聖書もこれに当たるかもしれません。

 

この不確かな足掛かりに頼って

人間はモノを認識し、

考察するのです。

 

この足掛かりは当然人によって異なるので、

意見の対立が起きます。

 

人は自分の足がかりが正しいと思い込み、

反対側の意見を認めません。

 

答えがはっきり一つに決まる問題は

自分の外には存在しえないのです。

 

今日では、

すべての問題に

何かしらの正解を設けようしているように思います。

 

なにか

利便性、効率だけが重視されている

ような気がします。

 

そこで、

人間は今一度自分の足掛けを見つめなおして、

足掛けの多様性を認識することが必要になるんじゃないでしょうか。

 

そして、

自分の足掛けから論理のみを用いて

様々なものに対して議論をして

自分の意見を持ってみましょう。

 

そうしたら、

自分に自信が持てなくなることでしょう。

 

自分はこれまでこんなにも考えてこなかったのか。

 

どんなに考えても結論が出ないじゃないか。

 

自分の不完全性を直視することができれば

昨日まで理解できなかった他者を

許容することができるかもしれません。